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【パパコラム:地域で生きていくために 02】あや幼少期 ─ 「いくつ?」と聞かれて思うこと

松波 直樹
はじめに

みなさん、「ダウン症」ってご存知でしょうか。なんとなく顔つきが似ていて、知能の発達が通常ではないな、というのが多くのイメージではないでしょうか。[開く]

第2章 あや幼少期

我が家にダウン症児“あや”が誕生し(第1章参照)、ドタバタしながらも新たな生活がスタートしました。今回はその後の奮闘を書いてみたいと思います。

生まれてしばらくは、「なぜ自分の子がダウン症?」という自己中心的な不安や疑問と、ときにこみ上げる、分からない不安への怒りのような感情に、僕の頭は支配されていました。当時の僕には“あや”というより“ダウン症児”という存在が大きかったのです。

実は、ダウン症告知の直後に「先天性完全型心内膜欠損症」という心臓の病気であることも告知されており、「体重が一定に達したらすぐに手術をした方がいい」と言われていました(ダウン症のある子には、多い合併症のようです)。あやは、すでに病気に立ち向かっていたのです。もちろん僕も、この病気をなんとかしなければと分かってはいたものの、頭の中は先ほどの通り。もやもやの中、生後9か月での大手術突入となりました。

事前の説明も受けましたが、1時間以上も心臓を止めるとのこと。

(まだ1年も生きていないのに、心臓を止める?)
(例外なく、ちゃんと元通り動くようになるよな?)
(えーっ??)

言い知れぬ不安でパニックになったのか、手術室に入ってあやを連れ戻したくなるくらいでした。待っている間は、僕の心臓も止まっているのかというくらいの緊張感。

(あやの心臓は今この瞬間止まっているんだよな?)
(あや、頑張れ!!)

手術予定時間は3~4時間と聞いていたのに、2時間も経たないうちに先生が手術室から出てこちらに向かってくるではないですか。緊張感はMAXに。

(まさか何かあった?)
(失敗?先生っ!)

一呼吸置いて、にっこり笑った先生が「無事終わりましたよ」。

(おーっ。)

涙が止まらない。
「先生ありがとうございましたっ!」

あやはICUに入り、僕たちは麻酔から覚めるのを待つことに。目を開けろ、目を開けろと心の中でずっと叫んでいました。どれくらいの時間が経ったのか分からない中、前ぶれもなく、あやは目をきらっと開けました。まっすぐ、しっかりと。

10年経った今でも、そのときの目は忘れません。その目を見たとき、僕の中のもやもやなど、もうどこにもありませんでした。小さいながらも将来を見据えているかのような、そのしっかりした目の先にあるものを、あやと一緒につくっていく決意を、このとき僕はしたのだと思います。

僕の思うこと。あやの思うこと。

その後のあやの心臓は順調でした。しかし普通、子供が立って歩き始めるのって1歳前後ですよね。あやはなんと3歳半まで歩けませんでした。ずっと四つん這い。ダウン症の子の中でも遅い方だと思います。「ほんとに歩けるようになるのかな。脊髄が何かおかしいのかな」と本気で心配しました。

ちなみに、家ではバウンサー(ハンモックのような赤ちゃん用の椅子)に座っていることが多かったのですが、僕が会社から帰宅すると、バウンサーから飛び出さんばかりに体を右に左に揺らし、全身で喜びを表現して歓迎してくれる毎日でした。仕事の疲れもそれで全て吹っ飛びます。妻や長女も、あやの半分でもいいから真似をしてくれれば、もっと仕事を頑張るのだけど(笑)。

さて、同年代の子と比べれば身長は小さいし顔も赤ちゃん顔なので、4歳頃まで「かわいい赤ちゃんね、何か月?」なんて聞かれていました。「2歳です」「3歳です」と答えると、「(その歳で)しゃべれないのかな?」と不思議そうな顔をされたり、四つん這いするのを見て驚かれたりしました。

赤ちゃんに見られるのを卒業しても、今度は「お嬢ちゃんいくつ?」と聞かれたりします。そんなとき、「嘘をつくのもなんだし」と思って本当の歳を答えると、皆さん困った顔になり、微妙な空気が流れます。もちろん皆さん悪気はないのですが、僕たちもどう反応すればよいのか結構困ります。その場で、「ダウン症でこういう感じなんですよ」と話すこともあるものの、通りすがりに声をかけられた時などは、そんな時間もなく、何かしこりのようなものだけが残ることが多いです。

ですから聞かれる機会の多い妻は割り切って、姉の成長を思い出して実際より下の年齢を言ってしまうこともあるそうです。僕たちと違って第一子がダウン症のパパママは、一般的な成長度合いが分からなくて、ただ困ってしまうこともあるだろうなあと思います。

また、僕たちが「この子はダウン症でね」と答える場面も多々ありますが、「いけないことを聞いてしまった」みたいな顔になる人もいれば、「へー、そうなんだ」とそのあとも色々聞いてくれる人もいます。中には、ダウン症だと分かったうえで話しかけてくれる人もいて、そんな方とはフランクに話せます。

ダウン症がもっと認知されてくれば、「おしゃべりのできない子もいれば、歩けない子もいる、発達の度合いはまちまちなんだ」と分かってもらえ、「この子はどのくらいできるの?」なんて会話も普通にできるのになあと思います。

このコラムを読んでくださった方は、ぜひダウン症は一個性で、健常児と何も違わないのだと思って、あえてダウン症の話を避けようとせず、何でも聞いてもらいたいです。「あやはしゃべれるの?」「学校は行ってるの?」など、普通に聞いてもらえればと思うのです。

僕たち親は、少なくとも我が家では、かわいい幼少期が長くていいなと思っていますので(笑)。

知ってる?ヘルプマーク

見た目では分からなくても、援助や配慮を必要としている人はたくさんいます。横浜市でも2017年3月から配布されている「ヘルプマーク」は、そうした人が援助を受けやすくするためのマークです。
これを身に着けている人が困っていたら、「何か自分にできるかな?」と思って声をかけてみてください。
また、援助や配慮を必要としている人は、区役所の高齢・障害支援課窓口でもらってください。

(出典:横浜市の記者発表資料)

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松波 直樹
松波 直樹
S44年12月生まれの47歳。出身は東京都国立市。現在、妻・長女(中2)・次女(小6)の4人で横浜市青葉区に在住。都内大学を出て、保険会社に入社し、埼玉、千葉、仙台、東京と転勤し、現在は横浜の支店に勤務。学生時代はラグビーや競技スキーをしていたものの、仕事の忙しさを言い訳に、社会人になってからはだいぶ不健康人間に。ロンドン五輪で村田選手が金メダルを獲ったことに感動して、ジムで週1回キックボクシングを始めて、気分はなんちゃってボクサーになっています。
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