【アジャパ山の夕日はいつもオレンジ(Season 3)- Vol.9】たまプラのあの銀色のオブジェの思い出
<はじめに>
うかうかしていたら平成が令和になってしまいました。昭和が遠くなりにけり。というわけで、不定期連載もシーズン3に突入。タイトルはそのままに続行中。通算で9回目のVol.9です。
書き手は昭和40年、1965年生まれ。 ブラッド・ピッドの2コ下、X JAPANのYOSHIKI とタメ歳です 。
Vol.9 たまプラのあの銀色のオブジェの思い出
50年も同じ街に住んでいると、一言で「昔話」といっても時と場合によって振れ幅が大きすぎてモヤモヤすることがちょいちょいある。
Vol.1 で触れた「たまプラーザの駅前が盆踊りの会場だった頃」というのは、筆者にとってのリアルな昔話だけど、その一方で、駅北側のロータリーがごっそりなくなるほどの大工事の末、団地から駅へ入る歩行者用のスロープ自体がなくなってしまったことは、ついこの間の出来事のように思えるのだが、冷静に考えれば10年ほども前の話。10年間といえば小学校に入学したばかりのランドセルの小僧が高校生になってむさくなり始めたりするくらいの時間が経っているわけだから、立派な「昔話」でもある。「ついこの間~」なんて話していると「はて?」となってしまうのも仕方がない。
だいたい、自分は昭和の人間だと思っていたのに振り返れば、昭和は24年間で(最初の数年は日本語も話せず自由に歩き回ることもできなかったから実感としては20年くらいか!)、大学卒業と同時に平成を迎え、気が付けば昭和を生きた時間を上回る30年以上を平成として過ごしてきた。なんだ、俺は平成の人間だったのか、と令和になった今、改めてシミジミと考えていたりする(昭和40年生まれが一浪している場合です)。
さらに言えば、20世紀と21世紀という世界共通の大きな節目が昭和ではなく平成の出来事だったりするのもやっかいだ。
世紀の節目に「恐怖の大王がやってくる」とかなんとか、昭和時代に散々あおられてきたせいか、1999年から2000年、2001年の世紀末の流れには、何となく昭和の臭いが付きまとってしまうのだがそれは私だけだろうか?あれが平成10年頃の話という感じが全然しないのである。なんだかほんと「時代感覚」というのは、その時と場合に応じていろいろで、いまいち釈然としないのである。駅の工事中の写真を見ながらそんなモヤモヤを感じていたら、もう一つ気になっていたことを思い出した。それがこれ。
駅ができた1963年当時からずっとそこにあった銀色のオブジェのことだ。これが駅の大改修工事中に姿がいつの間にか見えなくなって複雑な気持ちになっていたことを思い出した。「えっ、捨てちゃったの!?」って。
昔は、駅前には「コレ」しかなかったものだから、古くからこのエリアに住んでいる人にとっては、「たまプラ」を象徴するものだったと思う。ただ、象徴はするものの、それが何だったのかは分からないままだった、という人も少なくないのではないだろうか。言い方を換えれば、疑問すら浮かばないほどその存在自体を自然に受け流していた気もする。
ちなみに1974年くらいだろうか。小学校の遠足の集合場所が駅前だったりした頃、このオブジェの下には浅く水が張ってあって、金魚だか鯉だかが泳いでいた。コドモが手を突っ込んだりしてはしゃげるほど近くの存在だったし、そばで見上げるそのオブジェの決してピカピカではなく、金属らしからぬ柔らかそうな質感に、「ウルトラマンの肌ってこんなかなぁ~?」なんて友達と話していた記憶もあったりする。
改めて「ところで、これは一体なんだろう?」と思ったのは1980年代になる高校生ぐらいになってからかもしれない。しかし、それでも答えが見つからなかったことは覚えているので、やはり作品名や説明のプレートのようなものはなかったのだろう。ただ、空中に張られた有刺鉄線風のものから伝わるピンと張りつめた緊張感と、そこに浮かぶように柔らかく並ぶ「ハート」型のモノとのギャップが何とも言えない存在感を相変わらず放っていたことは高校生なりに感じていた。ちなみに握れば怪我をするトゲトゲしい鉄条網は今はあまり見かけないが、コドモの頃は工事現場とか資材置き場には当たり前のように張ってあったものだ。
それから何年経ったことになるのだろう。件の駅の大改修工事が始まり、気付いた時にはさっきの写真の通りこのオブジェは跡形もなくなっていて、ちょっとした寂しさを感じていたというわけだ。
でも、この工事の頃には、インターネットも常時接続が当たり前になっていて、好奇心の強い輩は何から何まですぐいろいろと調べられる時代になっていた。私もそういう質だったので、これが何なのかは突き止めることができた。彫刻家・篠田守男さんの「宇宙」という作品で、駅開業時に設置されたものだということも知ることができた(下記MEMO参照)。そして、北口にあった「宇宙」は南口に移設されることも分かった。
現在は羽田や成田まで行く大型バスなども行き来するような南口のロータリーという、以前よりもさらにそばには近寄れなくなった場所で、でも昔のままのあの質感で鎮座している。こんなことを書いているから、改めて近くまで寄って見てきたけれど、鉄条網みたいな危険な感じの鉄線ではなかった!コドモの記憶ってあてにならないものだ。
それにしても、令和になった今、このオブジェは住民にはどう映っているのだろう。もし自分が今小学生だったら、なんでこんなものがこんなところに?って気になってしょうがないと思うのだが。
ただ、もっと言えば、やはり説明がないことで思いを巡らせるきっかけを与えることこそが、この情報過多の時代には大切なのかもしれない……なんてことも夢想しちゃったりなんかしています。いずれにしても、工事の時になくならなくてよかった!とほっと胸をなでおろしています。
彫刻家 篠田守男 https://morioshinoda.jp/profile.html
昭和6年生まれの篠田さんだが、私と同世代の明和電機(※)と一緒に活動していたりしてとても興味深い。個人的には、たまプラーザの未来を語るうえで最重要人物の一人という気がしています。
明和電機 https://www.maywadenki.com/biography/
1993年にアートユニット(兄弟)として活動開始。「魚(ナ)コード」や「オタマトーン」などの開発でも知られる。2001年、兄・土佐正道(昭和40年生まれ)の定年退職に伴い弟の信道(昭和42年生まれ)が代表取締役社長に就任。CDデビューもしていた気がするが、公式サイトでは触れていない様子。