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【アジャパ山の夕日はいつもオレンジ 03】1970年代 たまプラ ガクシュージュク黎明期

和田 良太

<はじめに>
横浜北部の今・昔を“昭和40年男”がパパ目線で書くお気楽コラム。
ママ目線とは違ったやんちゃなテーマもフォロー。決して「昔は良かった」の懐古一辺倒ではなく、古きがあってこそ今を楽しめる~といった感じの温故知新コラム。ヒトもクルマも増える中、田園都市と言われる由縁の片田舎的牧歌ムードの良さを伝えられればと思って、キーボードを叩き始めました。

Vol.3 1970年代 たまプラ ガクシュージュク黎明期

というわけで、隔月連載の3回目~。

横浜北部エリア、とりわけ田園都市線沿線は、「進学塾」戦線異状アリってくらい塾がここ数年で急激に増えていったという印象が強い。では、昭和40年生まれの私が小学生の頃のこの町はどうだったか?

▲塾のイベントで餅つきしている小学生(1977年1月頃)

1975年くらいが学習塾黎明期。このエリアに限らず塾というものがちょいちょい頭角を現し始め、小・中学生対象の全国模試なるものもこの頃に生まれた。

遊ぶために小学校に通っていたような私の耳にも「ヨツヤオーツカ」って言葉が入るようになって、「日曜なのにテストを受けに行く人がいるのかァ。しかも電車に乗って!?」と驚いたものだ。その語感から、ところで何で家具屋さんでテストをやるんだろう?という疑問が浮かんだことを今でもハッキリ覚えている。大塚というと大塚家具かボンカレーしか連想できないコドモだった。

そんなレベルだからだろう。小5で自分も塾へ通うことに。小5=1976年頃には日能研もこのエリアに進出してきて、その他にもいろいろなタイプの塾が増え始めていたが、自分が通ったのは「港北教育ゼミナール」というところだった。

イトーヨーカドーが建つ前、雑草と土にまみれた空き地に平屋のプレハブ小屋が突然ぽつんと現れた。位置的には、今でいう「3丁目カフェ」のちょうど真向かい。先ほどの写真の左に見切れているのがそのプレハブ小屋だ。

この塾で学んだことは、大人になった今改めて考えると、①ギターのコード、②好きなものは深く好きになれ、③「私はペンを持っています」なんて英語で言えても意味ないでしょ、という価値観だった。そして情熱を意味する「パトス」という言葉に先生たちはこだわっていることもしっかりと印象に残っている。

ちなみに③については中1で英語を学ぶ前の6年生の頃から先生がそんな話をよくしてくれて、中1からの英語の授業は学校の教科書とはまったく異なるものだった(かといって英語がペラペラになるわけではないのですが。。。)。

世間に学習塾が台頭する前は、学校から帰ったあとにもう一回学校みたいなところに通うような発想はなかった。塾といえばそろばん塾で、たまプラにも今「すなづか珈琲店」や「韓国風居酒屋オソオセヨ」の入っている建物の2階に、当時そろばん塾があって、多くのたまプラっ子が通っていた。あとは、少年野球、お習字、ピアノやエレクトーン。そうそう、たまプラーザ団地の集会所では剣道も教えていたっけ? お稽古ごとに通うというのが普通の家庭のスタンダードだった。

で、件の港北教育ゼミナールである。町との関わり合いにも積極的で、1月には餅つき大会をやったり、住民を対象にした「漢字コンテスト」なんてのも開催してくれた。コドモだけでなく大人も参加していたから、チラシなんかを配ったり、たまプラーザ新聞に告知を出したりもしていたのだろう(※1975年の発行当初は分からないが、月イチで80年代後半頃まで配布されていた地元・美しが丘のタウン新聞)。

7月の最終週末には毎年、新潟・湯沢方面で合宿。中学や高校の部活を経験する前から、この合宿で年上の先輩との交流が生まれたのも今思えば貴重な体験。で、先生たちはフォークゲリラ世代だったのだろう。必ずギターを持ってきていてキャンプファイヤーを囲みながら拓郎や陽水なんかの歌を歌っていた。合宿中の授業の記憶はあまりない(笑)。そう、だから中2くらいまでにギターのコードなんかを憶えてしまったのだ。

▲赤い屋根の建物のあるところに今3丁目カフェがある

いろいろな塾がひしめくようになった今、それぞれが独自の教育へのこだわりを持ってやっているんだろうと思う。探せばこんなタイプの塾もあるのかもしれない。

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