アジャパ山の夕日はいつもオレンジ

【アジャパ山の夕日はいつもオレンジ 08】坂道多き横浜北部の未来を想う

<はじめに>
なかなか定期的なサイクルで続けられず恐縮です。そんな中、以前横浜北部に住んでいたという縁で遠く四国在住の方からも編集部宛にお便りが届くという嬉しいこともありつつ、スローテンポの連載コラムSeason2、「細く長く」を目指してVol.8です。
書き手は昭和40年、1965年生まれ。キアヌ・リーブスの1コ下、爆笑問題の太田光とタメ歳です。

Vol.8 坂道多き横浜北部の未来を想う

コラムのタイトルのアジャパ山という呼び名について、自分で書いていてなんだが、どこからどうなってそう呼ばれるようになったかはわかっていない。ただ、コドモの頃、虫取りに行くとき、ザリガニ取りに行くとき、防空壕に宝物を隠すときに目指していたエリア、たまプラーザ団地から寄り道しながら歩いて30分くらいの、舗装もされていない、今でいう荏子田・嶮山を中心としたその周辺の里山地帯のことを、いつの頃からか「アジャパ山の方へ行く」って言うようになっていた。

昭和40年代、巷では山本リンダの「ウララ~ウララ~ウラウラで~」が流行ったりしていて、「♪神がくれたこの美貌~」の“ビボー”って何ぞや?なんて思ってたりしていたくらいの頃からすでにアジャパ山という単語を耳にしていた気もするが定かではない。

ちなみに「アジャパー」と言うのは昭和コメディアンの伴淳三郎による流行語だが、私の世代はリアルタイムではないので、同じ団地在住のもっと年上のお兄さん達が命名したのではないか?とは察しが付くものの(のちに伴淳が出演していたTBSドラマ「ムー一族」「寺内貫太郎一家」で「アジャパ―」を知ることにはなりましたが…)、そもそもあの辺の里山と「伴淳」との繋がりもよくわからないし、エリアも正確には把握できない。しかも記憶をさかのぼり昔になればなるほど土地開発前になるわけで、その里山エリアは大きく広がってしまう。ちなみに昭和46年頃には、団地5-9から駅までにはこんな尾根の道(写真)もあり、団地の周りのほとんどのエリアがアジャパ山だったことになってしまう。

▲5-9と4-8の向かい側にあった山から尾根を歩いてたまプラ駅方面まで

平成7年には自分にコドモが生まれ、「ヨコハマ・りぶいん」※の抽選にあたってたまたま荏子田の賃貸マンションに住むようになったが、まさか大人になって、あの頃のアジャパ山エリアのど真ん中で生活するようになるとは思ってもいなかった。でもそのおかげで実に楽しく愉快に過ごすことができた。荏子田遊水地や元石川高校近くに位置するこのマンションの「よく日の当たる地上7メートル」の空中で過ごした日常は、たまプラーザ団地時代の「長屋感覚」(参考:コラム Vol.7)と同じ空気に包まれていた。

そんなたまたまの縁でこんな思い出深いエリアに住んだものだから、コドモと一緒になって遊んでいて、心の底から子育てが楽しいと思ったもので、ママたちも虫捕りや秘密基地探しなどに付き合いつつも、コドモが悪さしていたら近所のコであろうが誰だろうが叱ったりしながら実に楽しそうにやっていた。ポケベル、携帯電話、インターネット、常時接続、光通信とあわただしく環境が変わる中、そんなちょっぴりのどかな生活が楽しめたのも、やはりこの田園都市=ガーデンシティのちょっとした田舎っぽさが残っていたからこそなんだろうなと、今では思う。

▲荏子田地上7メートルからの眺め 左端に小さく見える王禅寺の煙突はまだ赤と白のストライプ(2010年5月)

その後に生まれた言葉でちょっとばかり流行った「スローライフ」や「ロハス」なんてのを地でいく感じ?と言えばそれはちょっと違うかもしれないけど、駅からは歩くと30分弱という不便なところにも、何か付加価値を見出していたのかもしれないし、何しろコドモらにとっては家のすぐ近くにアジャパ山的な状態が残っていて、カブトやクワガタもすぐ捕まえに行ける。秘密基地も至る所に作れる状態だった。自転車と虫アミが必需品だった彼らのその様子はデジタルおもちゃ全盛のその頃にあって、なかなか頼もしいものでもあった。

ただ、山や丘があるということは周知の通り「坂が多い」。

コドモや若いうちは鍛えられていいかもしれないが、誰もが年をとるもので、21世紀になり、平成も終わろうとする今、よく言われるようにシニア層も増えていき、この地形がかなり堪えているようだ。

たまプラーザ団地のある美しが丘では今、「郊外住宅地における地域移動」の社会実験として「オンデマンドバス」実験プロジェクトがスタートした。子育て中の方や高齢者が、気楽に街中を移動できるようにすることで外出の機会を創出、コミュニティ形成も促進させて、「健康で元気に暮らせるまちづくりをめざしていく」というものらしい。

▲嶮山アーチェリークラブ跡地からあざみ野団地方面を眺める(現青葉さわい病院辺り)山あれば坂あり(2008年10月)

昨年には、TOYOTAも「クルマ会社を超え、人々の様々な移動を助ける会社、モビリティ・カンパニーへと変革する」と公言したが、人々の移動手段についても新たな考え方が生まれ、生活スタイルの転機が訪れようとしている。

美しが丘中学校の校舎が美しが丘小学校の北分校だった1974年頃、当時流行っていた竹馬で学校まで通ったことがある者としては、この移動手段の発展による未来の町の姿に興味津々なのだ。

さてさて、シーズン3の扉写真、どうしようかなぁ? というわけで、また次回!

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ABOUT ME
和田 良太
わだりょうた(GMTエディター&ライター(GMT=地元))横浜市青葉区在住50年。22年の雑誌編集・Web編集の経験を地元に還元すべく編集・執筆などをサポート。地元の成長・発展・紆余曲折ぶり諸々を体感している事情通ゆえ、地元の未来についても関心高め。 また、このエリア育ちのロック偏差値が実は高い(持論!)ことにも注目している音楽好きでもある。