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【アジャパ山の夕日はいつもオレンジ(Season 3)- Vol.11】ニノミヤさんの神ヒコーキ!~DANCHI  SLOW DAYS

和田 良太

<はじめに>
コロナなんてものが出てきて世界中がバタバタして以来早3年。ワクチンも3回だか4回だかわからなくなってしまったが、そんなwithコロナの時代の中、不定期連載第11回目。
書き手(および撮り手)は昭和40年、1965年生まれ。レッチリのアンソニーの3つ下、爆笑問題・太田光とタメ歳の巳年男、たまプラーザ団地1期生のコドモです。

Vol.11 ニノミヤさんの神ヒコーキ!~DANCHI  SLOW DAYS

▲2023年冬のヒコーキ雲2本

 

「ニノミヤさんトコ行ってくる!」

小2くらいの頃だろうか。美しが丘小学校の団地側の校門(プールがある方)から、今で言う100段階段をグングン下って、太鼓橋を渡り、じゃぶじゃぶ池の土手を突っ切り、ドーナツ公園のドーナツをわけもなく一周したりしながらたまプラーザ団地5-9の1階の一番端っこ、前野歯科の目の前の我が家にランドセルを放り投げてタッチ&ゴーで出掛けた時の一言だ。

同じたまプラーザ団地の5街区のご近所さんにその“ニノミヤさんトコ”はあった。小2の頃という記憶が正しければ昭和48年・1973年の頃の話。ダンチのコドモたちは学年を問わずそのニノミヤさんトコへ入り浸ることが流行っていた時期があったのだ。玄関は開けっ放しになっていて「こんにちは~」とか言ったりしながら勝手に家の中へ入っていくコドモたち。

中にはニノミヤさんと呼ばれるおじさんがいて、”紙ヒコーキのセッケーズ”をくれるのだ。

まだ設計図なんて漢字も書けないコドモらが、部屋の至る所に座りこんでハサミやカッターを使ってその設計図どおりに切り抜き、指をボンドでベタベタにしながら紙ヒコーキを作っていた。

家の中にはニノミヤさんと呼ばれるおばさんもいて、麦茶をご馳走してくれたり、自分よりもっと小さなコには、ハサミの持ち方を教えてたりしていた。コドモが大人ぶって「セッケーズ」なんて言っているのは、実際に緻密なバランスが計算された競技用紙飛行機の図面だったからだ。

▲これは2006年8月の我が家での写真。1973年当時も見た目にはまさにこんな感じだった

 

ちなみにその用紙も、普通の画用紙や図工の授業で出てくる厚紙なんかではなく、ここでしか手に入らない(と、コドモらは勝手に思っていた!)ケント紙と呼ばれる特別な紙で、ニノミヤさんに「表と裏がある」なんてことも教わったりして、とにかくこういう専門的なことにコドモらはグイグイ惹かれていって、「そんじょそこらのコドモたちとは訳が違うもんね」なんて訳知り気分で、その精巧な紙飛行機作りを楽しんでいたのだ。

そして、丁寧に作るとそれはとてもとてもよく飛ぶのだった。

輪ゴムを束ねたカタパルト(これも自作していた)で、パチンコの要領で飛ばすのだが、とにかくよく飛ぶ。それにニノミヤさんにヒコーキの翼の反り具合や重心のチェックなんかをしてもらえれば、うまく行けば小学生でも1分くらい(腕時計もまだ持ってない小学生が数える60秒)は軽く飛ばすことができる。コドモながらに驚いたのは水平に飛ばすのではなくほとんど真上に向かってロケットのように飛ばすというワザだ。天高くそのカタパルトを使って飛ばし、そこからゆっくりと大きな円を描くように舞い降りてくるのだ。ジョーショーキリューなんて言葉も教えてもらって、得意気にそんな言葉を使っていたりした。

今、東小学校(美しが丘東小学校)と大きなマンション群がある一角は、その頃は広大な空き地と里山だったので、大抵のコドモはそこまで行ってそのヒコーキを飛ばしていた。ドーナツ公園や三角公園みたいないつも遊んでいる公園のサイズではとてもその飛行性能を活かせないからだ。「コドモ向けの公園じゃダメなんだよなぁ~」なんて事を偉そうに口走っていたものだ。

▲郵政宿舎がなくなった跡が、当時のその東小の一角にあった広大な空き地のようでタイムスリップしたみたいな不思議な気分。左端に見切れているのは“東”の付かない美しが丘小学校(2023年1月)

 

そのニノミヤさんが団地だけで話題の人ではなかったことはしばらく後になってから知ることになる。そのセッケーズが、東光堂(現・とんこつラーメン七志の隣)という当時のたまプラ在住の方にはお馴染みの本屋さんに「よく飛ぶ紙飛行機集」という『子供の科学』の別冊として売られていたからだ。地元のコドモとしては気付かなかったけど、そもそも全国で知られる凄いおじさんだったわけである。

小3、小4となる頃にはお宅におじゃますることもなく、普通に全国のコドモたちと同様にその後も発刊されていった第2集、第3集などを購入して、いろいろなタイプの高性能紙飛行機作りを楽しんでいた。

・・・そしてさらに30年くらい経った2006年の夏のある日。

我が息子が小学生の頃、その紙飛行機集を買って家で作り始めたのだ。あまりにも懐かしくて、写真をカミさんに撮ってもらったのを今でも覚えている。(それが2枚目の写真)

この頃にはインターネットなるものがあるのでいろいろ検索してみると、二宮康明さんは世界的にも知られる紙飛行機界の第一人者としてなお現役で活躍されていた。

そしてそしてさらにさらに16年。

ウィキペディアで現在96歳ということを知り、あの時のお礼が伝わればという思いで思わず久々に筆を執った次第の第11回アジャパ山オレンジでした。

それにしても今風に言えば、二宮さんの飛行機は”神ヒコーキ”だなぁ~と思う。そんなことを2023年の今、その当時のコドモが考えているのが何とも可笑しい。

▲1970年頃。右上に見えるのは団地4-8。インド料理アクバルと山内公園の間辺り。写っているのは私ではなく弟と父親
 
※ちなみに手にしているのは二宮さんの紙飛行機ではないかもしれません。ややこしくてすみません。凧上げやコマ回し同様、手作り飛行機を飛ばすことも空が広かった当時は割とよくやる普通の遊びだった気がします。

 

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わだりょうた
わだりょうた
GMTエディター&ライター(GMT=地元)
横浜市青葉区在住50年。22年の雑誌編集・Web編集の経験を地元に還元すべく編集・執筆などをサポート。地元の成長・発展・紆余曲折ぶり諸々を体感している事情通ゆえ、地元の未来についても関心高め。 また、このエリア育ちのロック偏差値が実は高い(持論!)ことにも注目している音楽好きでもある。
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